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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

長屋ぐらしの町 ―路地・つきあい・地蔵盆― 谷直樹(大阪くらしの今昔館館長)

 江戸時代、江戸、京都、大坂は三都と呼ばれた。三都を比較すると、江戸は将軍を頂点に武家人口が半数を占める武家の町、京は天皇と公家がいる公家の町である。大坂は、大坂城の城主は不在で武家は少数派、人口40万人のほとんどは町人が占めている。大坂は町人の町であった。

 ただ、江戸時代の町人は、厳密には家屋敷をもっている者で、家屋敷をもたない者は借家(しゃくや)人とされた。大坂の世帯主数は、元禄2年(1689)に、家持(いえもち)12, 977、借家68, 315で借家世帯が84%を占めていた。江戸時代の大坂は「町人の町」ではなく、じつは「借家人の町」であった。

 町人の住戸形式は戸建ての町家、借家人は長屋建ての借家(貸家)になる。大田南畝(おおたなんぽ)が編さんした問答集の『所以者何(ゆえんはなに)』に、「大坂ハ御覧の如く長屋建家多く御座候」と記されている。長屋建てというと、多くの人は裏長屋と誤解するが、大坂では表通りの町並みをつくる表長屋が高い比率を占めていた。道修町三丁目の明治19年(1886)の町並みを見ると、戸建てが33戸に対して長屋建てが63戸あり、その大半は表長屋である。大坂では表長屋は普通の商人(あきんど)の生活空間であったのである。

 大阪くらしの今昔館の近世展示室には、江戸時代の長屋が原寸大で再現されている。表長屋は、2軒長屋が2棟(玩具屋と本屋、建具屋と小間物屋)である。間取りは、表から店の間、中の間、座敷と3室が配され、通り土間にはへっつい(竈かまど)、はしり(流し)、そして井戸があり、裏庭には便所が設けられている。居室の構成や設備は戸建ての町家と変わらない。一方、路地を入った奥には、裏長屋があり、4軒長屋が再現されている。その間取りは、前土間に1間の居室と狭いもので、各戸に便所はなく、長屋の側面に共用の井戸と便所が設けられている。

 江戸時代の大坂の商家と聞くと、鴻池(こうのいけ)、住友、そしてNHKの朝ドラで一躍有名になった加島(かじま)屋(廣岡家)などの大店(おおだな)を連想するが、大半の商家は長屋建ての表長屋で商売を営んでいた。一方で上方落語に登場する喜六・清八の住まいは路地の奥にある裏長屋である。ここではお咲さんやお松はんといった元気なおかみさん連中が、井戸端会議に花を咲かせていたのである。

 

写真:大阪くらしの今昔館の近世展示室に再現された路地と裏長屋

 

写真上部は空堀商店街の街並み。表長屋の裏側には物干し台が並ぶ。その裏(写真下部)には裏長屋がびっしり。

 

 大阪を代表する作家であるオダサクこと織田作之助(1913~1947)の代表作に『わが町』(昭和18年)がある。物語は大阪の「河童路地」が舞台である。路地は町の中に7~80もあり、路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族より多い。路地の住人は、主人公である人力車夫の他吉、傘の修繕屋、羅宇仕替屋(らおしかえや)、落語家、弁士、相場師、一銭天婦羅(てんぷら)屋といった人びとである。隣の家の様子は筒抜けで、他吉が娘を叱っていると、それを聞きつけた隣の落語家の〆団治がとんで来てなだめにはいる。オダサクが描いた大阪の町と人は、路地と長屋が舞台である。当時の大阪は、御堂筋と地下鉄に代表される近代的な都市計画が進められ、「大大阪(だいおおさか)」といわれた時代であったが、その裏にもう一つの顔として路地と長屋の庶民の町があった。

 オダサクの『わが町』ではないが、大阪くらしの今昔館の近代展示室には「空堀通(からほりどおり)-商店街・路地・長屋」の再現模型がある。空堀は旧大坂三郷の周縁部にあって、もともとは幕府の御用瓦師の土取り場であった。江戸時代の中頃から長屋が建てられ、明治時代には空堀商店街に発展した。ここは路地と長屋の町として知られ、上方落語の「駱駝(らくだ)」にも登場する地域である。

 

小売店が並ぶ空堀通。

 

出典:「住まいのかたち暮らしのならい」大阪市立住まいのミュージアム図録本二階建の布団屋。大正8年(1919)ごろの建築。

 

 この模型の時代設定は、昭和13年(1938)8月24日である。一見、江戸時代の町並みのようだが、よく見ると、表通りには「すずらん灯」のしゃれた街灯があり、町家も軒蛇腹(のきじゃばら)のついた本二階建てが並んでいる。まぎれもなく昭和戦前の大阪の町並みである。表長屋の脇から路地が延び、奥には裏長屋がぎっしりと詰まっている。路地には共同水道と共同便所、そして地蔵堂がある。

 模型の設計は、増井正哉奈良女子大学助教授(現・京都大学大学院教授)が担当し、徹底的な現地調査が行われた。まず、地籍図から宅地の形状を把握し、現地で地形の高低差を計測し、住宅の実測調査を行った。ふつうの模型ならここで終わるが、増井氏は、模型の製作範囲に昭和の初期から現在まで住み続けている人をすべてリストアップし、転居先まで訪ねて行って聞き取りを行った。その結果、居住者や世帯構成がおおむね明らかになり、建物についても住宅の間取りだけではなく、隣近所の建物の外観や町の景観の情報も収集できた。古写真は確認作業を行って場所を特定し、共同水道の周りは石鹸の置き場まで聞き取りを行った。

 

模型製作の指導をする増井先生。

 

 模型を見ると、馬方さんにむち打たれ、善安筋(ぜんなんすじ)の石畳の坂をあえぎながら登る馬力(馬車)を2階の窓からながめていた少女、路地の入口で駄菓子を売っていたお婆さん、歯医者の前で駄々をこねる男の子、便所の汲み取りのおじさん、井戸端会議のおかみさんなど、長屋の暮らしぶりが再現されている。そして8月24日は地蔵盆の日である。路地の奥に祀られたお地蔵さんの前では、お坊さんの横で浴衣を着た子供たちが丸い輪を作って数珠くりをしている。長屋の軒先の提灯は、住人である扇子職人のおじさんが作ったものであった。盛んであった昭和戦前の地蔵盆の風景を彷彿させる場面である。

 

地蔵盆

 

地形の高低差を利用したこんな表長屋もあった。

 

近代の洋風長屋

 

 今昔館の近代展示室には、「大大阪新開地(だいおおさかしんかいち)風景」と題して大阪で発達した洋風長屋の精密な模型もあり、モダンな外観をたのしむことができる。このように今昔館には江戸時代から近代までの長屋が再現され、私たちは大阪人の暮らしの原風景を垣間見ることができる。大阪は経済都市のイメージが強いが、今昔館では文化の側面を意識した展示を行っている。私は、長屋ぐらしに代表される大阪の生活文化をもう一度見直し、その創造的な継承を図りたいと願っている。