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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

風呂屋のある風景谷直樹(大阪くらしの今昔館館長)

写真:大阪くらしの今昔館の近代展示室「大大阪新開地」写真中央が寿湯

 昭和の初めから戦災をはさんで昭和三十年代まで、風呂屋の煙突は町の目印であった。家を探すときも「風呂屋まで○○分」と不動産屋のキャッチフレーズになるほど、すっかり町の生活に密着していた。何か犯罪が発生すると、まっさきに風呂屋に聞き込みに行くほど、町内の情報が集中していた。風呂屋の中では「裸の付き合い」になるので、職業や地位、階層などを超えた自由な人間関係を結ぶことができ、「銭湯を知っている者は、風呂の裸を親しいものとして振舞えるだけの教養をそなえているのである。」(幸田文『回転どあ』浴室)といわれるように、社交のルールをしつける教育の場にもなっていた。

 大阪くらしの今昔館の近代展示室には、昭和初期の風呂屋が精密な模型で再現されている。大阪市は、大正十四年(一九二五)、第二次市域拡張によって市街地が拡大し、人口も東京を抜いて日本一となった。新たに編入された区域では土地区画整理が進められ、新市街地は「大大阪新開地」と呼ばれた。ここには近代的な長屋住宅が建てられ、「健康住宅地」と宣伝された。この模型の年代は、昭和十年(一九三五)正月という設定である。大阪府下で内風呂の普及率は一七パーセントしかない時代、風呂屋は重要な都市施設であった。

 当時の大阪の風呂屋の外観は、主屋は和風二階建てで、正面には陸屋根に青い瓦庇の洋風玄関が取り付き、その両側に青瓦を葺いて丸窓を開けた塀が伸びている。戦前に建てられた京都の風呂屋や東京の銭湯は、和風の二階建てで一階の入口に和風の大きな唐破風がついているが、大阪の風呂屋の玄関は近代的な洋風のものが多かった。間取りは、主屋の一階が男女に分かれた脱衣場になり、それぞれ表側は塀に囲まれた前栽がある。主屋の後方に接続する平屋の建物が男女に分かれた浴室で、その裏に焚口が付属し、煙突がそびえている。

 この模型は、細かく再現された正月の風俗にも注目していただきたい。風呂屋の前にはハンチングをかぶって風呂桶をもった男性と、暖簾を上げて外に出ようとする和服の男性がいる。風呂屋の入口の両側には門松が飾られていて、向かいの空き地では子どもたちが元気に凧あげに興じている。風呂屋の煙突に凧が引っかかっているのも正月らしい風景である

 

風呂好きを歴史から紐とく

 

大阪くらしの今昔館の近世展示室に再現された風呂屋の「天神湯」柘榴口をくぐる。

 日本人の風呂好きは、高温多湿な気候の下で、身体を清潔にしたいという生理的な要求にもとづくものであるが、単にそれだけでは片づけることができない、文化的な意味が内包されている。かつてアメリカの人類学者が、「日本人の最も好むささやかな肉体的快楽の一つは温浴である。(略)彼らが毎日入浴するのは、アメリカと同じように清潔のためでもあるが、なおそのほかに、世界の他の国ぐにの入浴の習慣には類例を見いだすことの困難な、一種の受動的な耽溺の芸術としての価値を置いている」(ルース・ベネディクト『菊と刀』長谷川松治訳)と指摘したように、日本人にとって入浴は特別の意味をもっているとされた。風呂屋は、これに加えて、町の社交場、娯楽場、さらに風俗的な遊興の場としても大きな役割を果たしてきた。こうした効能が一体となって、日本人独特の入浴観が成立したのである。

 

 

 幕末の三都(京・大坂・江戸)の風俗を比較した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に、「京坂にて風呂屋と云ひ、江戸にて銭湯あるひは湯屋と云ふ」と記されており、現在、公衆浴場のことを、大阪で風呂屋、東京で銭湯と呼ぶ習慣が江戸時代からあったことが分かる。同書によると、大坂の風呂屋は、休日は正月元日のみで、二日を初風呂、初湯といって、丑の刻(早朝二時頃)から風呂屋の下男や近隣の男児とともに竹筒を法螺のように吹き鳴らして、「わいた、わいた」と呼び叫んで近所を回った。初湯の日、得意の浴客は湯銭の外に祝儀銭二、三百文をもってきた。因みに当時の湯銭は大人八文(現代のお金では二四〇円程度)であるが、小寒から正月下旬までは九文、六、七月は六文であったと記されている。

 大阪くらしの今昔館には、江戸時代・天保年間(一八三〇年代)の大坂町三丁目の町並みを再現した展示の中に、風呂屋の「天神湯」が実物大で建てられている。天神湯は、『守貞謾稿』の挿図など、様々な資料を駆使して復元した。その間取りは、表から奥に、板の間(脱衣場)、切石を敷き詰めた洗い場、浴槽と続いている。板の間の片隅にある「高座」は俗に「銭取場」とも呼ばれる。現在の番台のことである。ただ、大坂では江戸と異なり、客を二階に上げることはなかった。天保初年までは男女入り込みで浴槽は一つしかなく、天保十三年(一八四二)の町触以降、男女別の浴槽になった。

 

『街之噂』(ちまたのうわさ)「正月二日初湯の図」(大阪くらしの今昔館蔵)。

 

 風呂屋で特徴的なのは、洗い場と浴槽の境に設けられた出入口である。これは身をかがめて入ることから、柘榴口(ざくろぐち)と呼ばれた。鏡磨きにザクロの酢が必要とされたところから、「鏡要る」に「屈み入る」をかけてできた名前とされる。『守貞謾稿』によると、大坂では柱や框(かまち)に欅材を用い、杮(こけら)で葺いた唐破風(からはふ)の屋根をのせて破風板は朱塗りとすると書かれている。

 ところで、今昔館では近代(明治・大正・昭和)の住まいの変遷を精巧な模型で展示している。裏表紙に紹介した「寿湯」は、昭和十年(一九三五)頃の風呂屋である。当時の浴場に関する書物や建築基準を書いた資料、戦後に浴場を設計した建築士から入手した図面を参考にして、和田康由氏(当時大阪市立都島第二工業高等学校教諭・工学博士)が監修・設計を担当した。参考までに、大正十三年(一九二四)の「大阪市パノラマ地図」を詳細に見ると、「ゆ」と表記され、煙突をもつ建物が多数描かれている。戦前の大阪市内には、風呂屋が密集していたことが分かるのである。

 

「大阪市パノラマ地図」(部分、大阪くらしの今昔館蔵)煙突の下に「ゆ」。

 

着物体験を楽しむ来館者。

 もう一つ、昭和三十一年の「古市中団地」模型の中に風呂屋がある。当時、団地の一住戸の床面積は四〇平方メートル程度しかなかったので、和式両用の水洗便所は設置できたが、風呂を設ける空間的な余裕がなかった。そこで、団地に接して風呂屋が設けられたのである。この年の大阪市内の風呂屋数は一一一八軒で毎年伸び続けていた。大阪市内で風呂屋数がいちばん多かったのは昭和四十三年の一三三六軒、ちなみに東京では前年の昭和四十二年の二六八三軒がピークで、それ以後は全国的にも減少の一途をたどっている。

 最後に風呂屋ではないが、共同利用したであろう風呂を紹介したい。それは、終戦直後の昭和二十三年に造られた大阪市営城北バス住宅の一画に置かれた、ドラム缶風呂である。焼野が原の大阪で、満足な住宅もなかった時代には、ドラム缶の浴槽でもありがたい存在であった。不要になったドラム缶を調達し、そのまま設置したものや、周りを目隠し塀で囲んだものなど様々なドラム缶風呂がある。おそらく近所同士が共同で使ったのであろう。ここにも日本人の風呂に対するこだわりを見ることができる。

 

近代展示室「大阪市営城北バス住宅」とドラム缶風呂。