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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

江戸時代の大坂の災害ー火事・地震・津波ー 2

図2「浪花大地震見聞記」(初篇)

 ところで、淀川下流に位置し大阪湾に面する大坂は、風水害や津波の被害も大きかった。嘉永七年(一八五四)には大地震と大津波が大坂を襲った(同年十一月二十七日に改元されたため安政の大地震・大津波と呼ばれる)。

 

 「浪花大地震見聞記」(大阪くらしの今昔館蔵)によると十一月四日朝に地震があり、坐摩社では鳥居が崩れ、石灯籠、絵馬堂、井戸屋形などが損傷している。町家も「市中家居崩れ、あるひハゆがみ、住居ならざる分数多あり」といった被害であった(図2)。

 

図3「浪花大地震見聞記」(二篇)

 地震は翌五日にも続き、「ごう〳〵と音しけれバ市中の人々雷ならんと言居るうち津浪来るとて大さわぎなし、をの〳〵上町の高見のかたへ逃走る」といった混雑の中で、木津川口や安治川まで高潮が押し寄せ、大船・小船が川に侵入し、道頓堀川では川筋の五ヶ所の橋を突き落とし、大黒橋周辺では「大舩帆柱を立しまゝにていやが上に押来り、舩の上に舩を突かけ、川ばたの家居を打ちくづし、小舩ハ多く下敷になり、死人怪我人数しらず」という状況であった(図3)。

 

 哀れを誘うのは、地震の後で船に避難した人が津波にさらわれて被害が拡大したことである。「見聞記」には、「老人・小児・婦女子・足弱の人は屋形船・荷ぶね等に取乗り安心し居たる處に、おもひがけなく此大変(津波)に出合、舩を打返され死するもの数多」とある。

 

図4「攝津大津波次第」

 安政の大津波に関しては多くの摺物が発行されているが、「攝津大津波次第」(図4。大阪くらしの今昔館蔵)には津波の被害状況が地図上に示されている。先の「見聞記」に記されたように、木津川に停泊していた大小の船舶が堀川を遡り、橋を崩し、道頓堀川と西横堀の分岐路に架けられた大黒橋にまで達した様子が描かれている。

 

 ところで、大阪市浪速区幸町には「大地震両川口津浪記石碑」が立っている。これは安政の大地震と大津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として建立された石碑である。碑文には、地震の後で船に避難した人が津波によって大きな被害を受けたこと、一四八年前の宝永地震でも同じことがあったのに、その教訓を生かすことができなかったことが書かれている。

 

 そして、年月がたてば伝え聞く人は稀となり、忘れ去られてしまうが、今後はこのようなことがないよう、災害を後世に語り継いで欲しいと結んでいる。地元では、毎年地蔵盆にあわせて石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れるのが年中行事となっており、建碑の精神が現代に受け継がれている稀有な例として、平成十八年度に「大阪市指定文化財」に指定された。その石碑の拓本が、市民から大阪くらしの今昔館に寄贈された。これは掛軸に装丁されているので、床の間に飾られ、津波の被害を後世に伝える役割を果たしてきたのであろう(図5)。

 

 今回紹介した資料は、今昔館で展示されているので、ご覧いただき、江戸時代の大火・地震・津波の被害状況と、被災ごとに蓄積されてきた大坂市民の防災の知恵に触れていただければ幸いである。(参考『まちに住まう』一九八九年刊。火事・地震・津波の被害は資料によって数字が異なる。ここでは紹介した資料の

記載に従った)

大阪くらしの今昔館館長 谷直樹

図5「大地震両川口津浪記石碑拓本」