新収蔵品「四季耕作図」屏風 大森探雲 筆
大阪くらしの今昔館は、二〇二〇年度に「四季耕作図」屏風(注1)を購入した。
江戸時代中期の安永二年(一七七三)に絵師の大森捜雲(おおもりそううん)が描いたもので、稲作や養蚕などの農作業や農村風景がいきいきと描かれている。
この作品はこれまで全く知られていない新出資料で、保存状態も良く、美しい色彩が残っている。
ここでは「四季耕作図」屏風の場面を詳しく紹介し、絵師の経歴に触れ、画題に込められた意味を読み解いてみたい。
(注1)紙本着色 六曲一双。 各 九七・〇×二九八・二㎝
描かれた風景
最初に本屏風に描かれた内容を見ていこう。屏風は右隻(うせき)から左隻(させき)に季節が流れていく。
右隻右端の早春の山道を薪売りが下りてくる。里には梅や桜が咲き誇っている。一〜二扇に描かれた養蚕農家は春の作業に忙しく、屋内では蚕紙から孵化したばかりの蚕を掃き落としている。外では桑の葉を刻み籠蚕に与え、籠を蚕棚に収めている(図1)。
二扇に描かれる鶏合わせは宮中では三月三日の行事。農村風景になじむ伝統的な春の景物(けいぶつ)をさりげなく描きこんだのであろう。三扇の獅子舞と太鼓の曲打ちをともなう太神楽は、春にめぐってくる芸能の民であった(図2)。
五〜六扇では田おこしと田植えが始まっており、豊かな水が初夏の訪れを告げている。田にめぐらされた灌漑(かんがい)用水や複雑な水門は、実際のものをよく観察して描かれている。右隻左端で注連縄(しめなわ)がはられている水田は、神社に奉納する米を作る神田であろう。
一方左隻には夏から秋にかけての米農家が描かれる。
一〜二扇では稲刈りが行われ、三扇では大根畑の横に作られた稲架(はさ)に稲を干している。村の塞(さい)の神をまもる大木も、今は絶好の干場となっている(図3)。
四〜五扇では村中総出で脱穀、籾すり、俵詰めが行われている。少し大きな子は唐箕(おうみ)から落とす籾を団扇(うちわ)であおぎ、ごみと選別する風選(ふうせん)を手伝っている(図4)。
千歯こき、唐棹(からさお)、土臼などの農具は、本屏風を鑑賞する、農民ではない人々の興味をひいたことであろう。目立たないが農家の奥では繭とりがおこなわれている。六扇目では新しい米俵が左端の神社に運ばれていく。
太鼓を鳴らしているのは初穂を奉納する祭りが行われているのであろう。遠くの山には雪がつもり、冬の訪れを告げている。稲作と養蚕の一年が、季節の風俗や美しい風景とともにいきいきと描かれているのである。
絵師 大森捜雲と大坂
この「四季耕作図」屏風の両端には「法橋捜雲行年(ほっきょうそううんこうねん)七十歳筆」の墨書と朱文円印「守一(もりかず)」があり(図5)、作者は江戸中期の絵師、大森捜雲であることが分かる。
捜雲については、文化十五年(一八一八)の『本朝古今新増書画便覧(ほんちょうここんしんぞうしょがびんらん)』に「捜雲 鶴沢探山の門人。大森氏。名は守一。法眼(ほげん)に叙(じょ)す」とある。
師の鶴沢探山は狩野探幽の門人で、京都に来て鶴沢派の祖となった絵師である。捜雲の作品は本図の他にも数点が知られており、その一つ「猩々(しょうじょう)・東山・西山図」に「六十三歳」の落款(らっかん)と明和三年(一七六六)の箱書があることから、宝永元年(元禄十七年-一七〇四)の生まれであることが明らかになる。
三〜四十歳代には絵手本や本の挿絵を描いていたが、明和二年には園城寺法明院の襖絵を描き、六十三歳の時にはすでに法橋位を得ていた(注2)。明和七年には仙洞御所(後桜町院)の襖絵も揮毫しており(注3)、当時高名な絵師であったことが分かる。
(注2)捜雲は一七六七年に法橋、一七七三年に法眼位を得たとされる
(『近世京都の狩野派展図録』京都文化博物館、二〇〇四)
(注3)宮内庁書陵部蔵「造内裏御指図御用記」寛政元年四月六日条
本図は捜雲七十歳、すなわち安永二年(一七七三)の作品で、現在判明している中では最晩年の作になる。ところで近世画伝書を集大成した『大日本書画名家大鑑』(昭和九年刊)は次のように記す。
捜雲〔画〕大森捜雲、名は守一、大阪の画家、鶴沢探山の門に学び、よく其法を得たり 法眼、享保頃
捜月〔画〕大森捜月、大阪の画家、捜雲の義子、養父に学び、家声を墜さず、宝暦頃の人
捜朴〔画〕梶 捜朴、大阪の人、画を大森捜雲の門に学ぶ、宝暦頃の人
捜雲が「大阪の画家」と記されたのはこの資料だけであるが、鶴澤探山の門人には、橘守国(たちばなもりくに)、小柴守直(こしばもりなお)、林幽甫(はやしゆうほ)、牲川充信(にえかわみつのぶ)など大坂の絵師が多くいた。
捜雲の挿絵による『画本福寿海(えほんふくじゅかい)』は、大坂の本屋で改題と再刊を繰り返しており、大坂とは深い関わりがあったと考えられる。
耕作図に込められた意味
本図の拠り所となったのは中国から伝来した耕織図(こうしょくず)である。耕織図は南宋の県令であった楼璹(ろうちゅう)(一〇九〇〜一一六二)が農業に関心をもち、水稲耕作二一景、養蚕製織二四景の画に詩を添えて高宗に献じたものが広まったとされる。
耕織図は為政者が農民の労苦を知る「勧戒(かんかい)」や、農業を奨励する「勧農」の意味があり、中国でも様々なものが作られた。日本には室町時代に伝わり、漢画すなわち中国風の画題として襖や屏風に水墨画で描かれた。江戸時代になると幕府御用絵師の狩野探幽が四季耕作図屏風を描き、一門に大きな影響を与えている。
延宝四年(一六七六)には狩野永納(えいのう)が『耕織図』を復刻出版している(図6)。しかし江戸中期になると諸派の絵師により、日本の風俗による四季耕作図が彩り豊かに描かれるようになる。身近な画題である四季耕作図は「勧戒」の意味が薄れ、風俗図として広く親しまれるようになった。その多くはより身近な稲作に特化し、養蚕を描く例は減少した。
本図は日本の風俗で描かれ、稲作や村の様子は写実的である。しかし養蚕の場面は少なく、蚕棚が屋外に描かれるなど、実見していない可能性が高い。あえて手本を参照して養蚕を描きいれることにより、『耕織図』の伝統を踏まえた作としたのであろう。
また季節を表す月次(つきなみ)景物が随所に描かれ、大和絵の伝統も生かされている。山には桜の下で小袖を翻して踊る人々や、紅葉狩りで歌を詠む武家の家族なども描かれる。金雲を用いて彩色も美しい本図が、教養豊かな鑑賞者を想定していることが推測できる。
本図は大森捜雲が安永二年、七十歳の最晩年に制作したことの明らかな基準作である。禁裏御用(きんりごよう)も務めた捜雲の絵は丁寧で品格がある。くわえて太神楽、猿曳(さるひき)、傀儡師(くぐつし)(図7)などの芸能、目隠し鬼や相撲などの子どもの遊び、街道を行く山伏や旅人など、農村の生活がいきいきと表現されている。
保存もよく、さまざまな情報のある本作は、今後大阪くらしの今昔館で展示や教育への活用が期待できる。
岩間 香
摂南大学名誉教授
大阪くらしの今昔館特別研究員