特別展 商都大坂の豪商・加島屋 あきない 町家 くらし
加島屋久右衛門は江戸時代後期大坂では鴻池や住友と並んで、長者番付の頂点に挙げられた豪商でした。ただ一般的には「浪花の豪商」として加島屋はあまりなじみがない名前かもしれません。
日本には古い屋号や創業家(加島屋の場合廣岡家)の名を冠した企業がたくさんありますが、名前を引き継ぐ企業がないことが、なじみのなさに関係しているようです。
加島屋が注目されるきっかけになったのは、平成二七年(二〇一五)放送のNHK朝のテレビ小説「あさが来た」です。主人公・白岡あさの嫁ぎ先・「加野屋」のモデルが加島屋、白岡あさのモデルが廣岡浅子です(注一)。
- (注一)原作・古川智映子(一九八八)『小説土佐堀川女性実業家・広岡浅子の生涯』では実名で取り扱われています。
浅子は、出水三井家の出身で、加島屋久右衛門家の分家・五兵衛家に嫁ぎました。幕末・維新の激動のなか、さまざまな事業経営に乗り出して加島屋を立て直し、女子教育に力を注ぎ日本女子大学の設立に大きな役割を果たしました。
このドラマ放映の年、加島屋に関する大きな発見がありました。奈良県橿原市の旧家・岡橋家で久右衛門家の古文書・生活道具と什器類が発見されたのです(注二)。
- (注二)第二次大戦中、大阪に戦火が及ぶことを恐れた当時の当主・廣岡正直氏が家財を姻戚関係にあった岡橋家に疎開させたもので、その大部分は廣岡家に戻されたものの、一部がそのまま残されたと伝わります。生活関連の什器類は今昔館に寄贈され、雛飾りは平成二十九年の企画展「浪花の大ひな祭り」で公開されています。これらの資料は近世・近代における経済史・経営史の研究に大きな役割をはたしています。
こうしたなか、廣岡家がその設立に深く関わった大同生命保険株式会社の創立一二〇周年事業で、加島屋本宅の復元模型が制作されました。大阪くらしの今昔館もその監修に参加し、監修の過程での資料調査と研究成果をもとにこの特別展を実施することになりました。
なお、復元模型は加島屋本宅の故地でもある大同生命保険株式会社メモリアルホール(大阪市西区土佐堀一丁目)で、創立記念日(七月十五日)にあわせて公開されます。
加島屋の商い
加島屋久右衛門の商いは、商都大坂と密接不可分の関係にありました。初代久右衛門は、十七世紀初頭に尼崎から大坂に出て奉公に上がり、その後、のれん分けをうけて加島屋を創業したとされています。
この時期の商いの実態ははっきりしませんが、精米業を営んだとされています。江戸時代の半ば・四代目久右衛門吉信の時代になると米市場の顔役になっていたことが分かっています。
豪商への飛躍は諸大名の金融御用・大名貸を引き受け、それを拡大することによって実現しました。加島屋久右衛門が融資を行っていた大名・旗本は、幕末時点で一三七家もありましたが、とくに長く融資を行ったのは、中津藩、萩藩、津和野藩でした。
豪商の地位を確立していた寛政一〇年(一七九八)四月、江戸堀一丁目に分家・五兵衛家が興され、同様の金融業を営みました。廣岡浅子が嫁いだのはこの五兵衛家です。特別展では中津藩の蔵米販売台帳「中津藩判書帳」(図一)、米交換の約束手形・米切手などを展示します。
町家 加島屋本宅の復元
加島屋本宅は、「加島屋本宅絵図」によって具体的な間取りを知ることができます(図二)。敷地は約四〇〇坪で、本宅は北を流れる土佐堀川に面して間口をひらき、主屋は表屋造で、表棟(見世棟)と奥棟(台所棟)を玄関棟でつないでいます。奥棟の西に座敷が張り出し、敷地内には四棟の蔵もありました。
表棟は基本的に商いの場で土間をはさんで上見世と下見世に分かれ、上見世の奥に土蔵があり、商いに関わる米切手などを収納したと考えられます。表棟の奥の中庭に面して、格式の高い武家などを迎える式台玄関が設けられました。奥棟は梁間十間の大きな建物です。居室に竈やはしりをもうけて、奥向きの日常生活が営まれていました。
このほか、茶室が二室、座敷は四室ありました。座敷のうちひとつは十五畳半で、格式の高い儀礼のほか、取引先である諸藩の役人との応対に使われたものと思われます。茶室へは、本格的な動線がありました。通りに客門・待合を経て、露地と腰掛があり、さらに露地を進むと、畳の茶室に至ります。
茶室前の井戸は太閤井戸とよばれ、現在の大同生命大阪本社ビルに移設されています。一方、外観と細部については、当時の絵画や古写真を参考にしました。まず、弘化四年(一八四七)新板『二千年袖鑒』に掲載された「大坂かじ久(加島屋久右衛門)」の図が参考になりました。
また撮影時期・アングルが異なる古写真が四枚見つかりました。その一枚が明治十八年(一八八五)の淀川大洪水で流失し、明治二十一年に鉄橋となった肥後橋から撮影されたもの(図三)で、本瓦と桟瓦の葺き分け、瓦の枚数など、細かい点までを確認できたほか、写真の消失点から、それぞれの建物の高さ関係を検討できました。
特別展では、「加島屋本宅絵図」をはじめとして、復元検討に用いた資料を展示します。
加島屋のくらし
加島屋本宅内には茶室が二つ構えられていましたが、代々の当主は茶道に造詣が深く、書画・浄瑠璃などもよくし、一流の文化人でもありました。書画・茶道具の名品を収集していたことも知られています。
特別展では加島屋廣岡家旧蔵・松花堂昭乗「踊布袋図」(個人蔵)を展示するほか、図像が判明しているものについては可能なかぎりで本宅模型座敷飾りや茶室のしつらいに反映させています。また、当主の書画も旦那芸のレベルを超えた作品もあり、六代目久右衛門正誠の軸物なども特別展に色を添えてくれます。
今昔館の館蔵品のなかからは、廣岡久右衛門家旧蔵の節句飾り(図四)などを出陳します。加島屋の近代大名貸金融に特化した商人として日本を代表する豪商となった加島屋ですが、明治四年(一八七一)の廃藩置県で取引相手としての藩がなくなりました。
加島屋にとっての近代とは、新たな事業の模索と、その事業の安定化のための長い道程となります。廣岡浅子の活躍もあって明治二十年代を迎える頃、ようやく危機を脱することができました。
その後は浅子の夫・廣岡信五郎が大阪株式取引所理事職を務めるなど大阪財界に影響力を持ちました。明治二二年(一八八九)、大阪の財界人らを中心に尼崎紡績(現在のユニチカ)が創業すると、信五郎が初代社長に就任。信五郎は明治二五年の日本綿花設立発起人にも名を連ねます。
明治二一年には、加島銀行、ついで明治二八年に加島貯蓄銀行が設立され、九代目久右衛門正秋が社長になります。明治三二年、真宗生命の経営権を得て朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と改称すると、明治三五年には、朝日、護国、北海の三社が合併して大同生命が設立されました。
そして、大正十四年(一九二五)、江戸時代から加島屋本宅がおかれた土佐堀に浅子の娘婿・廣岡恵三の義弟にあたるW・M・ヴォーリズの設計による大同生命肥後橋ビル(図五)が建築されます。
特別展では、新撰組の借用書など、幕末維新の激動の時代の資料と、明治中期以降の廣岡家のくらしを伝える生活用具などを展示します。特別展を通じて近世・近代の大阪を支えた豪商の商い・町家・くらしについて学び楽しんでいただければ幸いです。
特別展「商都大坂の豪商・加島屋 あきない町家くらし」
2022年7月15日(金)〜2022年9月26日(月)