大阪くらしの今昔館新収蔵品 桜下美人図 江戸時代後期
佐藤魚大(さとうぎょだい)
生年不詳〜天保八(一八三七)年頃
咲きこぼれる八重桜に両腕を伸ばし、枝を折ろうとしている女性。桜の枝は裂け、その振動で花びらが散っています。大胆で意表をつく構図とは対照的に、女性の表情は柔和で優しく、作品は優美な情感にあふれています。
女性の顔貌をみると、眉を剃って額上部に描き眉をし、口元は高価な笹紅(ささべに)をさし、御殿風の「下げ上げ」に髪を結っています。着物は墨絵風で色彩を抑えていますが、帯は対照的に鮮やかな橙(だいだい)色で、大きく描かれた白菊が際立っています。また、鯉口(こいくち)という狭い袖口や舟底型(ふなぞこがた)の袂(たもと)、幅の狭い帯を結び切りにして下方に垂らす公家風の着付をしています。たくし上げたお引きずりの裾を帯に挟んで引き出し、足元は庭下駄を履いているので、ごく近い外出の様子を描いています。
公家の侍女と思しき女性が桜の枝を折っている図から思い起こされるのは、後醍醐天皇の中宮(ちゅうぐう)西園寺禧子(きし)が、政務に忙しい帝の気を引くために、侍女に命じて紫宸(ししん)殿の左近の桜の枝を折らせ、折った枝を帝の前でみせびらかして、自分を追いかけさせた逸話です。
後醍醐天皇と禧子はおしどり夫婦として「増鏡」など複数の歴史物語に記されています。御所の桜を折ることは禁忌とされていましたが、帝は禧子を咎めることなく、次の歌を送っています。
九重(ここのえ)の雲ゐの春の桜花
秋の宮人(みやびと)いかでおるらむ
雲の立つ大空に向かって高く咲く春の桜花(紫宸殿の桜を指す)を、秋の宮人(中宮に仕える人)が、どうして折ったのだろうか
これに対する禧子の返歌は、
たをらすは秋の宮人いかでかは
雲ゐの春の花をみるべき
秋の宮(中宮)である私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったからです
「新千載和歌集」春下一一六・一一七
禧子の実家の西園寺邸は「秋の深山」と呼ばれ、禧子は「秋の宮」と称されていました。女性の帯の白菊は「秋の宮」即ち禧子の暗喩(あんゆ)として描かれたものと思われます。
鑑賞者は本図を見て、帝と禧子の逸話や紫宸殿の桜に思いを巡らせ、さらに、帝が吉野に南朝を樹立した歴史から、名所吉野の桜へ思いを馳せたことが想像されます。
佐藤魚大は、長堀三休橋南に居住し、山水画や風俗画を描いて船場の旦那衆に愛好されました。本図は古典、和歌、歴史的な知識の基に鑑賞すると、画面を超えて様々な情景へと想像が広がる作品です。このような作品が受容され愛好されたことは、大坂町人の教養の深さを物語っています。
深田智恵子
(大阪くらしの今昔館学芸員)
企画展「春夏秋冬 花鳥風月に遊ぶ」
2024年4月20日(土)〜2024年6月23日(日)
大阪くらしの今昔館では、近世から近代にかけて大阪で活動した絵師(大阪画壇)の作品を収集しています。彼らの作品の多くは、四季折々のまちの景観や年中行事を画題としています。 経済都市として繁栄した大坂の市中は商家が密集して建ち、自然の風物に触れられる場所は限られていました。都市に暮らす人々は絵画によって、四季の移ろいや自然の風情を感じ取っていました。
本展では月岡雪鼎(つきおか せってい)、佐藤魚大(さとう ぎょだい)、西山完瑛(にしやま かんえい)、菅楯彦(すが たてひこ)、五井金水(ごい きんすい)など、近世から近代にかけての大阪画壇の作品を展示します。大阪の人々が愛好した春夏秋冬・花鳥風月の世界をお楽しみください。